前回の記事「江戸時代後期に誕生した健康」では、健康とは西洋医が客観的に観て「異常」が無いと判定された身体だということがわかりました。

しかしどこまでを「普通」とし、どこまでを「異常」とするのか決めることは容易ではありません。生物は機械と違って正常と異常の境界線が明瞭ではないのです。

ガン(癌 ※以下ガンと表記)を例にしてみましょう。一般的にはガン細胞があれば「異常」で無ければ「正常」だと考えてしまいますが、ゼロか一かではありません。全くのゼロということはなく誰の体でも一日三千ほどのガン細胞が作られていることがわかっています。つまりガン細胞というのは常に誰しもが持っているわけです。それが増えていけば○○ガンという診断になりますが、そこそこの量であれば異常なしという診断になります。

また突然心臓の血管が詰まってしまい死に至る心筋梗塞という病気も発症は突発ですが、何十年とかけて血管が消耗し詰まってきます。ですからいつまで「正常」でいつから「異常」が始まったのか定義することは難しい問題です。

そこで前段階として高血圧症というのがあります。高血圧になった段階で正常と異常に線を引こう。病気としよう。じゃあ高血圧は最高血圧130以上か?120以上か?140以上か?ここでも明確な「正常」と「異常」の境界はありません。このように生物は正常と異常の間は明瞭な色分けがなくグラデーションです。生物学的には「正常」と「異常」の境界は決まっていない、決まっていないからしかたなく誰かが決めているのです。

では誰が決めているのでしょうか。端的に言えば「偉い人」。つまり権力ということになります。

普通と異常を振り分けた近代

社会史のミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926~84)は『狂気の歴史』の中で権力がどのように精神疾患における正常と異常の境界を決めていったかを論じました。

現代の私たちは「精神疾患は脳の病気だ」という解釈がなされています。やや前では「精神の病気だ」と捉えられていました。どちらにしても病気として扱っています。

しかし十七世紀のヨーロッパでは何かの異常というより「神罰」「憑依」として扱われていました。

フーコーの研究対象はヨーロッパだけですが、調べてみるとどうやら状況は日本でも同じみたいです。「親の因果が子の報い」という言い回しが江戸時代からあるように、親や先祖、前世の言動に対する「仏罰」「神罰」「悪霊」「報い」である、今で言う精神疾患はそのように思われていました。一方で平安時代では物狂い(ものぐるひ)と言って神がかった状態や人としてポジティブに扱われることもあったようです。

十七世紀ヨーロッパも前近代日本も共通しているのは「人間の理解を超えた存在」として扱われていることです。神が憑いているにせよ、悪魔、悪霊が憑いているにせよ、決してからかったり、怒らせたりしてはいけない信仰対象でした。なおすように社会的な要求があるものではなく、「超自然現象」の具体的な存在モデルであり共同体の中で信仰強化機能を果たしていたのです。「いい子にしてないと、悪魔が来るよ」「信仰しないと取り憑かれるよ」と言われただけでは「それって具体にどうなるの」という疑問が湧きますが、「罪に堕ちた者」の具体例が実在することで「本当に取り憑かれた人っているんだ」とより信仰が強化されますよね。つまり彼ら彼女らは社会の中で存在理由があり、居場所があったのです。

ところがヨーロッパでは十八世紀になると、居場所が無くなります。彼ら彼女らは「異常」であり社会から排除すべき対象とされたのです。なぜなら国家は生産性と兵力が必要になり、「標準的な身体」の量産を求めるようになったからです。国家的なプロジェクトとして「正常」「異常」の線引きを行い、「異常」と判定された身体は収監され、矯正することを求められるようになっていきます。

ではどのように「正常」と「異常」を振り分けるのかというと、ここで医学的方法が用いられています。「標準」から逸脱した身体、言動をリスト化し、当てはまる人物には「病理」という異常が意味付けられます。神や悪魔の仕業で信仰すべき対象だったものが、精神に付着した病理の仕業で排除すべき対象になったのです。

日本でも明治になると近代化のために国民の標準化が必要になりました。ヨーロッパ同様に近代国家として科学的な理屈によって正常と異常を分離し、異常を「監禁」「矯正」するようになります。

このように「標準的な身体」と「異常な身体」は医学的な理論で分離されていき、世界は「標準的な身体」だけが存在可能な場所となったのです。

その背景として近代化があります。国民には生産力と兵力が期待されるようになり、その期待に応えられる「標準的な身体」を社会が求めていたのです。

メディア用語としての「現代型うつ病」

「健康」と「異常」を判定する権力は医学だけではありません。今日では医学的には存在しない「異常」も新しく創造されています。例えば「現代型(新型)うつ病」というワードを知っているでしょうか?これは二○一一年のNHKクローズアップ現代で使用された言葉です。

「不眠に悩む、職場で激しく落ち込むといった「うつ」の症状を示す一方で、自分を責めるのではなく上司のせいにする、休職中にも関わらず旅行には出かける…。いわゆる”現代型うつ”だ。」

NHK “現代型うつ”にどう向きあうか

とされています。ところが番組で放送されたような「現代型うつ」の所見を医学的な診断基準に照らし合わせるとうつ病には該当しないようなのです。そもそも「現代型うつ」という診断名さえ存在していないのです。

日本うつ病学会の治療ガイドライン(二〇一六)には

「最近では、マスコミ用語である「新型(現代型)うつ病」などが、医学的知見の明確な裏打ちなく広まったため混乱を生じている。」

日本うつ病学会治療ガイドライン(2016)

とあります。おそらく「うつ病」とは診断されないが気分の症状があり職場でトラブルになっている人を「現代型うつ」というラベリングをし、社会問題として提起したのでしょう。しかしあたかも「現代型うつ」という病気があるかのような誤解が生じています。

心理学用語としての「HSP」

HSP(Highly Sensitive Person ※以下HSPと表記する)というワードも医学的な診断名でも病気でもないのですが、性格の「異常」かのような誤解を生じています。

HSPは心理学で使われている概念で、環境刺激を感受、認知する性質が高い人のことを言います。多くの人が気づかない匂い、音、人の言動、環境の変化などに敏感な人ということもあり、通俗的には「繊細さん」と言われることもあります。

このHSPという概念もメディアやSNS、書籍によって知られるようになり、セルフチェックリストを見ながら「私はHSPだ」「あの人ってHSPだよね」と当てはめる方も増えています。

さてこの「 HSP」も「現代型うつ」と同じようにまるで診断名かのような誤解が生じています。病気ではないので、医学的には存在しないものです。そして誤解はもう一つ、HSPは「性質」であって「異常」ではないということです。HSPは落ち込みやすい、傷つきやすい、ネガティブな人という見方をされていることが多いのですが、ネガティブな影響もポジティブな影響もどちらも受けやすいのです。たしかにちょっとしたことで傷つきやすいかもしれない、しかしちょっとしたことで喜んだり感動したりします。

HSPという概念は本来心理学的な性格特性として発生した「性質」ですが、マスメディア‐個人-SNSというメディアネットワークを巡っているうちに概念が歪んでいき、新しい「異常」として創造されてしまったのです。

このように「異常」というのは厚生労働省や医学、〇〇学会だけが生産しているわけではなく、メディア、企業、個人などの相互作用で意図せず創造されているわけです。