客観的な所見によって「異常」のない状態が健康であるということがわかりました。さらに「正常」と「異常」の線引きは主に医学が行っていましたが、昨今では医学に加え、メディア、企業、個人の相互作用によって社会の中で決まっていく、という事態もわかりました。

さて健康とは何か、明らかになるにつれ健康になることは幸せなのだろうかという疑問が浮かんできます。

健康優良児コンテスト

昭和5年から文部省と朝日新聞社が結託して行った健康コンテスト「健康優良児」というイベントがあります。これは子どもの健康日本一を決めるコンテストのようなものです。(実際、優勝者は「桃太郎」の称号が与えられた。)

審査項目は身長、体重、胸囲、座高、栄養、疾病異常の「身体検査項目」と、走力、聴力、投力の「運動能力項目」、そして、病欠日数、学業成績、普段の行いなどの「品行項目」、さらには、分娩状況、哺乳状況、歩行をはじめた年齢月、祖父 母以下の家族の年齢や健康状態、死因、家族の経済状況などの「親族家庭環境項目」にいたるまで広範囲にわたって審査するものでした(健康優良推進学校の軌跡)

昭和初期の社会が求めていた身体は軍人身体です。審査項目を見ればどのような条件が求められていたのかよくわかりますね。このような条件に適合する身体を持つ子どもは「健康優良児」として表彰され子どもだけではなく、その親、親戚、輩出した学校まで名誉なことでした。

このように健康になるということは社会の要求に応えることになりますので称えられ、その点では幸せなことかもしれません。ところが「健康優良児」は一般国民に比べ、死亡率が高くなってしまいます。なぜなら戦争が始まると真っ先に召集されたからです。

日本陸軍の死亡率は一八%で、およそ五人に一人を失いました(「史料太平洋戦争被害調査報告書』)。しかし、「健康優良児」の死亡率はこれをさらに上回るものでした。
昭和五年から十二年までの間に「特選」以上に選ばれた児童の中で、消息の追跡が可能であった男子は七十一人です。そのうち五〇%にあたる三十六名が亡くなっているのです(「健康優 良児童追跡調査報告書』)。

「健康」の日本史

健康になることは幸せか、言い換えると社会によって条件づけられた身体になっていくことは幸せか?という問いでした。

現代の私たちの感覚ではいくら「健康」だと社会から認められ、表彰されようともいち早く戦争の最前線に立たされるのは幸せではありません。

たしかにこれは現代を生きる私たちの感覚であり、戦時中のイデオロギーで生きていた彼ら彼女らが同様の感覚だったと決めつけることはできないかもしれません。「お国のために私たちの身体を利用して頂き幸せです。」と心から言うかもしれない。しかし、それはそれで大きな問題です。

現代の社会が求めている身体は

社会が要求している身体規格があって、その規格に適合している身体が「健康」である、というのはそんなの戦時中の話だと思うかもしれません。

たしかに、私は偏平足なのですが学校で「陸軍になった時たくさん歩けなくなるからなおそうね」と言われたことはありません。しかしそれは社会の要求が変わって「戦争」から「生産」になったためです。私に立派な軍人になることではなく、立派なサラリーマンになることを社会が要求するようになったからです。

肉体労働から知的労働に変遷していくにつれ、国民に求める身体規格も変遷していきました。従来求められていた体力に代わって身体に学力と精神力、昨今では加えてコミュニケーション能力が求められています。英語や数学を覚える能力や、他者の感情を予測する能力を備えた身体を求めているのです。

このような規格から外れると「異常」ということになり、「異常」の種類を分類され、科学的な言語を使ってラベリングされ、なおして健康になるように求められます。

なぜ英語や数学を覚える能力や、他者の感情を予測する能力を持つ身体にならなければいけないのか?それは先ほども述べましたが、立派な働き手、すなわち生産性の高い人間になるためです。

生産性の高い身体とはどのようなものでしょう。たくさん仕事ができる、さらに家庭とも両立できる、そんな身体でしょう。これが現代社会が求める「健康優良児」です。このような人はたしかにすごい。こんな人に憧れるし、そうなりたいと思ってしまいます。さて、このような人は幸せでしょうか?おそらく周りからの評価は高いでしょう。仕事と家庭との両立もできるので、子どもや夫もしくは妻からの信頼も得られていることでしょう。うん、このような身体を持っていると幸せそうではあります。しかし問題もあります。

戦時中の「健康優良児」は称賛されたものの、兵力として国家に身を捧げ、非常に高い死亡率となりました。「現代版の健康優良児」も近いものがあります。

産業社会での健康優良児たちは高負荷な生産性を求められています。そのような労働環境にいると、うつ病なり心身症なり何かしら生産不可能な身体になることがあります。そうなった時にいち早く生産活動ができる「健康」な身体にするため仕事を休み精神科に通うことになります。そして健康になったらまたストレス高負荷な労働環境に戻り生産活動を行う…ちょっと変ですよね、一体何のために健康になったんだっけ?と思ってしまいます。

うつ病の罹患率に関しては平成8年20万7000人から20年の間で3倍以上の70万4000人になっています。これはうつ病の発症が増えたと言えるかもしれないし、うつ病を観てくれるクリニックが増えて受診者が増えたということなのかもしれませんので検証が必要ではありますが、いずれにしてもうつ病という社会問題が顕在化していることを意味しています。

健康を目指すということは社会が要求する身体規格になることです。それは賞賛を得ることができるという喜ばしい面がある一方で、社会のために身体を消費し個人の充実した人生を損なう可能性を秘めています。