悲しい物語から生まれたもうひとつの医学
オステオパシーの始まりは今から約150年前、
医師である父親(38歳)の物語がきっかけです。
父親の名前はA.T.スティル。彼は医者であり当時は南北戦争の軍医としても活躍しました。
そして戦争は終わり、スティルは無事に帰ることができました。
待っていた家族、子どもたちには嬉しい知らせだったでしょう。これから、平穏な生活が戻るはずだったスティル一家。
しかし悲劇が起こります。子ども3人が当時、流行だった髄膜炎にかかり生死をさまよったのです。
医者であるスティルは当時の医学最善の術を施し、回復を神に祈りました。しかし、子どもたち3人とも亡くなってしまいました。
スティルは嘆き、悲しみ、精神的に崩壊し今で言う「うつ」のような状態になってしまいました。
治る人、そうでない人の違い
時間が彼を少しずつ回復させ、次第にあることを考え始めました。
「髄膜炎から回復した子、医療を尽くしても回復できなかった我が子。何が違うのか。」
医者として最善の医療を行ったにもかかわらず、3人の子どもをなくしてしまった。
一方、治る人もいる。もっと言えば投薬せずとも治る人もいる。
一体何が違うのでしょうか。
スティルにはずっとこのことばかり考えていました。
そしてある仮説を立てます。治る人、そうでない人の違いは・・・
体が自分自身を治そうとする基本的な体力ではないか
つまり自然治癒力ではないか
しかし彼の疑問はまだ続きます。
ではなぜ自然治癒力に差ができるのか?その答えを探るため彼がしたことは
身体の解剖(構造)を観察し始めたのです。彼は医者だったので解剖学を研究することができました。
自然治癒力が高い人、低い人。何か解剖学的な違いはあるのか・・・
その研究の結果、彼はこうのように考察しました。
自然治癒力が低下している人の体内は、
筋肉の緊張、骨格の歪みが慢性化し、血液の流れが停滞が起きている。
筋肉や骨格の仕組みが、健康や疾病に重大な役割を果たす。
スティルはこのコンセプトを基盤に、筋骨格を整える治療を始めました。
これがオステオパシーの誕生です。
スティルが残したこと
彼はオステオパシーというもうひとつの医学を作りました。それはシンプルに言えば、
病気自体でなく人間について観察研究し、身体のよりよく扱いましょう。
このコンセプトをアメリカ医学界に発表し、オステオパシー専門医の養成学校を作りました。
実際の臨床でも、投薬、手術治療では回復しなかった多くの人々を救いました。
そして、スティルはオステオパシー研究を後世に伝承しこの世を去りました。
今では世界50ヵ国の大学や研究機関で研究され続けて発展を遂げています。また世界保健機構(WHO)では2010年にオステオパシーの教育基準を定め、各教育機関では専門職の育成を進めています。
日本ではまだ馴染みがないかもしれません。ですが、
6年前にフランス政府認可のオステオパシー専門校が日本のオステオパシー団体と提携し、東京でも教育を受けることができるようになりました。
今年2017年はスティル没後ちょうど100年。
スティルが天国でどう思っているかわかりませんが、
自分の子どもたちを救いたかったA.Tスティルの想いは海を越えて、時代を経て、日本にも浸透し始めています。