生まれながらの病気は別として、病気になるのもならないのも個人の行いによって決まると思われています。高血圧になればしょっぱいものを食べ過ぎていたなあ、と思うし、高脂血症になれば油っぽいものを、糖尿病になれば甘いものを、肝機能障害になればアルコールを摂取し過ぎていたなあ、と反省します。

あらゆる病気で「この不調は、過去に〇〇していた(しないでいた)ことが原因だ」と考えます。その延長で自分で蒔いたタネだから自分で負担すべきという健康自己責任論が発生します。責任という言葉にはいくつか意味があります。ここで言っている自己責任とは、自分の行為に対して自分で不利益や制裁を負うこと、別の人が救済しないこと。つまり「その不調は自身の行いが原因である、よって不利益を負うべきだ」ということでいいと思います。

世の中の情報を見ていると甘いものを食べていると糖尿病になる、しょっぱいものを食べていると高血圧になる、妊娠高血圧になったのはあなたが食べ過ぎたからだ、と語られているところをよく目にします。

また我々のような健康を商品にするビジネスでは「原因は○○していたせいです。いますぐ(ウチの製品、サービスを使い)行動をあらためましょう!」と広告しています。これらに共通する点は「不調になるのも、ならないのもあなたの行動次第だ」と主張していることです。

本当なのでしょうか。いくら健康に気をつけていても不調を抱えたり病気になったりすることはないのでしょうか。自己責任論者なら「いや、それは努力が足りないのだ」「まだ意識が低いのだ」「そもそもやり方が間違っているのだ」と言うかもしれません。さて、はたして病気になったのは自分が招いた結果なのでしょうか?

身体現象はコントロールできるのか

糖尿病のような生活習慣病と言われるものに関しては特に「自分で蒔いたタネでは?」と思えてきます。

確かに糖尿病になれば糖分を控えなければ悪化するし、糖分を控えることで糖尿病のリスクを減らすことはできる。その点は間違えなく医学的な事実です。しかし甘いものをたくさん食べると糖尿病になると結論付けることには慎重にならなければいけません。

糖尿病になるならないは遺伝的体質が影響しています。複数の遺伝子が影響し合って糖尿病になりやすさが決定します。すごく糖尿病になりやすい体、まあまあなりやすい体、あまりならない体もあります。ですから甘いものをたくさん食べようが糖尿病になる人はなるし、ならない人はならない。この遺伝的な体質に、食べ過ぎ、運動不足、肥満、加齢、ストレス、など様々な環境因子が加わってはじめて糖尿病が発症すると考えられています。「糖尿病になった人間は甘いものをたくさん食べたからだ、糖尿病ではない人間は甘いものをあまり食べていないからだ」という非常にわかりやすい因果論には論理の飛躍があるのです。

糖尿病に限らずアトピーにしても妊娠高血圧にしても、あらゆる病理は遺伝的因子と環境因子が複雑に組み合わさって発生する現象です。遺伝的因子と環境因子を努力と根性で何とかできるものではありません。自己啓発のカリスマが折れない心を駆使しても難しいのではないでしょうか。よって自分自身に不調がある時「この不調は、過去に〇〇していた(しないでいた)ことが原因だ」と安易に考えしまうことには慎重にならなければいけません。まして不調を抱えている他者に対して「その不調はあなた自身の行いが原因だ」と言うこともできないのです。

身体について「知らない」ことを知る

数多くの学者が身体現象について研究しており、医学的な知識は一ヶ月で倍になるとも言われています。科学は何百年も調べていますが未だ謎が多く、人類が全容を理解するのがいつになるかわかりません。

しかし不調は自己責任であると考える人は違います。「身体現象は人間によって解明されている、人間によってコントロール可能だ」と信じているのです。このような信念は誰しもが少なからず持っているのではないでしょうか。

コロナの感染者数が増えてくると政府や自治体の政策のせいだと考えてしまいます。そこには「人類は感染症をコントロールできる」という暗黙の前提があります。まあ実際、政府や自治体の政策で感染者数は増えたり減ったりするでしょう。しかし感染症がいつの時代もどこの地域も第一波、第二波という波形を描く理由はわかっていません。今回の新型コロナ感染症をちゃんとコントロールできました、という国は(北朝鮮以外は)ありません。

西洋医学はもともと、身体現象というのはわからないから解明しよう。正しくコントロールしよう。というチャレンジ精神でした。

「わからない」というのが出発点になっています。一方、健康自己責任論では「既にわかっている」が出発点です。身体現象は解明されている。正しくコントロールできるはず。というわけです。ですから、コントロールできない理由を「コントロールしようという意思がない」「努力がみられない」「やり方が間違えている」と解釈します。確かに科学はたくさんのことを発見してきました。でも全てではない。わからないことだってたくさんあるわけです。人間の科学は「なんでも知っているんだぞ、意のままにコントロールできるんだぞ」というのは、ちょっと恥ずかしい。恥ずかしいだけならまだいいのですが、この勘違いが「頑張れば病気にならないはず」と信じさせる。そして不調を抱えた自分を責めたり、不調に悩む人を責めることになります。

科学が見つけた予防法には一定の効果は確実にあります。しかし病気を完全に制圧できるわけではありません。それは病気には遺伝的な体質や生活環境などのどうしようもない要因が含まれていたり、「ファクターX」のようなまだ人類が知らなかった要因が含まれています。

病気というのはたくさんの糸がからんで解けなくなった糸くずのようなものです。たくさんの要因が複雑にからみあっているのです。例えば感染症も「ウイルスを吸い込んだせいで感染した」という単純な話ではなく、のど粘膜の分泌量、口腔内の常在菌量、常在菌種類、抗体の種類、抗体反応スピード…などの要因が重なり合い感染する人、しない人が出ます。今回のコロナウイルス感染症に関しても二次感染しなかった施設や家庭は対策が素晴らしい、二次感染したところは対策が甘かったのだ、と結論づけることができません。

手を差し伸べるべき

このように身体現象は予想以上に複雑です。「不調は本人が招いた結果」とは言えないことがわかります。確かに糖尿病になりやすい遺伝子を持った人はもっと糖質を控えていたら糖尿病にならなかったのかもしれない。痛風になりやすい遺伝子を持った人がビールを控えていたら痛風にならなかったかもしれない。しかしそれは結果論です。河川が氾濫したあとで「あーあ、あと10センチ高く堤防作っておけばよかったのに」って言うのと同じ。科学者が束になっても自然現象を正確に予測できるわけではありません。

不調は本人の行動によってのみ左右される結果ではありませんから、支援されることに後ろめたさを感じたり、過去の自分を責める必要はありません。誰しも同じ状況になるかもしれない。正当に健康保険、介護保険などを使って何らかの支援を受けてもよいのです。

しかし自らの足で立とうという意思がなければ、いくら手を借りても立っていることはできません。つまり支援されるだけで自らの行動を放棄すべきではないのです。遺伝的因子のようなコントロール不可能なものもたくさんありますが、自分で変えられるコントロール可能な因子もあるはずです。さらに言えば治すことが全てではなく、病気や不調は共に生きるという選択肢もあるのです。